翌朝―― 朱莉はぼんやりした頭で目が覚めた。時計を見るとまだ朝の6時を少し過ぎたところであった。どうやら昨夜は泣きながら眠ってしまっていたようで顔に触れると涙の跡が残っている。こんな顔で明日香と翔の前に顔を見せるわけにはいかない。朱莉は急いでベッドから起きると洗面台で顔を洗い、じっと自分の顔を鏡で見る。「駄目駄目、こんな顔していたら……笑顔でいなくちゃ」そして口角を上げて無理に笑顔を作って笑ってみる。「うん、これなら……多分大丈夫だよね……」そしてエミにメッセージを送った。『おはようございます。朝早くからすみません。実は今一緒に旅行に来ている方たちと別の島に遊びに来ていますので、本日の予定はキャンセルさせて下さい。申し訳ございません。また連絡させていただきます』メッセージを送った後、朱莉はぼんやりと外の景色を眺めていた。外はこの世の物とは思えないほどの美しい景色が広がっているというのに、朱莉の心はちっとも晴れやかでは無かった。瞳を閉じると、どうしても昨夜の明日香と翔の抱き合っている姿が蘇ってきてしまう。それに翔は朱莉があの時、室内へ入ってきたことにはまるきり気が付いている様子は無かったが、明日香ははっきり朱莉の顔を見た。そしてあろうことか、勝ち誇ったような顔で朱莉を見て笑みを浮かべたのだ。つまり、明日香は始めから自分と翔の情事の場面を朱莉に見せつける為に、自分たちの部屋へと呼んだのである。朱莉は何故明日香がそこまで自分に意地悪をするのか分からなかった。ましてや男女の行為を朱莉にわざと見せつけるなど…常軌を逸しているとしか思えない。(私はそれ程までに明日香さんに憎まれているの………?)普段から明日香と翔の生活の中に入り込まないようにしていた。電話もかけず、1週間に1度だけのメッセージの交換しか行っていないというのに。朱莉にはこれ以上どうやって自分の気配を消せばよいのか、もう分からなくなっていた。明日香にとっての朱莉は空気のような存在どころか、目の上のたんこぶのような存在なのかもしれない。いっその事、完全に無視してくれている方が、どんなに精神的に楽だろう。だが、明日香はそれすら許してはくれないのかもしれない。本当は今すぐ水上飛行機に乗ってヴェラナ国際空港のある、現在朱莉が宿泊しているホテルに帰りたいくらいだった。明日香とどんな顔
しかし、それから1時間以上経過しても明日香達からは何の音沙汰も無い。そうなると朱莉は別の意味で心配になってきた。ひょっとしたら、あの2人は自分を置いて、別の島めぐりに飛行機に乗って出かけてしまったのではないだろうか……? 悪い考えばかりが頭に浮かんでくる。10時まで待って何の連絡も来なければ自分の方から明日香のスマホに連絡を入れてみよう……。朱莉はそう心に決めた。するとその矢先、突然朱莉のスマホが鳴った。手に取ると着信相手は明日香からであった。朱莉は慌ててスマホをタップすると電話に出た。「はい、おはようございます」『朱莉さん? 貴女今何処にいるの?』「どこって……部屋ですけど?」『嫌だ。まだそんな所にいるの? もうホテルを出るからすぐに荷物をまとめてラウンジまで来てちょうだい。早くしてよ!』すぐに電話は切れてしまった。(え? そういう事だったの? 私は2人に特に連絡を入れず食事に行っても良かったと言う事なの?)本当は自分から、朝連絡を入れるべきだったのだろうか? だが昨夜の2人の情事を見せられ、その最中の明日香と視線が合ってしまったと言うのに、どうして連絡など出来るだろうか?「そっか……一緒に来ていても、1人で行動しなさいって事だったんだね……」思わず、悲しみが込み上げて手が止まってしまい、スマホの着信で我に返った。相手は当然明日香からである。『どう? 朱莉さん、もう片付けは終わったの?』イライラした口調で明日香がいきなり尋ねてくる。「あ、すみません。まだです……」『まったく随分呑気な人ね? いい? 人を待たせてはいけないのよ? こんなの一般常識じゃないの」すると脇から翔の窘める声が聞こえてきた。『まあ、いいじゃ無いか。明日香。ほら、昨日撮影したデジカメの画像でも見て待っていよう』電話越しに聞こえてくる翔の声は、朱莉に向けられるそれとは違って、とても優しい声だった。『全く仕方ないわね……それじゃ待ってるから早く準備して来なさいよ?』一方的に電話を切られてしまった。ふう……。朱莉は小さくため息を付いた。「急がなくちゃ。明日香さんを怒らせたらいけないものね」そして少ない荷物を片付け始めた―― 朱莉が荷物を持ってラウンジに行くと、翔と明日香が仲良さげにデジカメを覗き込んでいた。「すみません、お待たせいたしました」す
――17時過ぎ フルレ島のホテルに戻って来た翔がシャワールームから出てくると、明日香は1人先にソファに座ってシャンパンを飲んでくつろいでいた。その表情には笑みが浮かんでいる。「どうしたんだ、明日香。何か楽しい事でもあったのか?」バスローブを羽織り、濡れた髪をタオルで拭きながら翔は明日香に近付いた。「ええ、ちょっとね……昨日の出来事を思い出していたから」「ああ、確かに水上ヴィラは最高だったし、海も綺麗で素晴らしかったな」翔は笑みを浮かべ、明日香の隣に座ると肩を抱き寄せた。「そうね。でも私が思い出していたのはそんなことじゃないけどね」空になったグラスをテーブルの上に置き、明日香は翔に寄りかかった。「それじゃ何を思い出していたんだ?」明日香の髪を優しく撫でる翔。「フフフ……朱莉さんのことよ」それを聞くと、明日香の髪を撫でていた翔の手がピタリと止まった。「ああ……彼女か。明日香、彼女の話をするのはやめにしないか? ……不愉快になってくる」翔は明日香の肩を抱き寄せなた。「あら? 何故なの ?最初の頃は朱莉さんの事を気遣っているように見えたけど?」「そうかもしれないが、今朝の話を聞いて考えが変わったんだ。全く……あんな女だとは思わなかった」翔の声には憎しみが籠っていた。「今朝の話? どんな話だったかしら?」それを聞いた翔は目を見開く。「おいおい、明日香。しっかりしてくれよ。お前が今朝話したんじゃないか」「え? 私が今朝話したこと?」「本当に覚えていないのか? 明日香、昨夜俺に話してくれただろう? 朱莉さんが着替えの服を持って来ていないから、夜取りに来てもらう約束をしているって。それで朱莉さんから部屋にお邪魔するのは悪いから部屋の出口のところに置いておいて欲しいと言われたって話してくれただろう? それなのに彼女は取りに来なかったんじゃ無いか」「ああ……そう言えばそんな話……したかもね」明日香はじっと何かを考え込むかのように言った。「それにしても自分から頼んでおいて平気で約束を破るなんて……。そんな人間だとは思わなかった。見損なったよ……」翔が溜息をつくと、明日香は楽しそうに肩を震わせて笑った。「フフフ……違うの、そんなんじゃないのよ」「何が違うって?」「どうしようかな~。ほんとの事話ちゃおうかな……?」明日香は上目遣い
「それじゃあね……今年のクリスマスは夜景の素敵なホテルで過ごしたいわ。ねえ、いいでしょう?」「ああ。それ位大丈夫さ。よし、最高級のホテルを手配しよう」「本当!?やった!」明日香は嬉しそうに手を叩く。「それじゃあね……教えてあげる。実はね、朱莉さんには部屋の中に荷物を置くから、中へ入るように伝えてあったのよ?」「何だって……? でも尋ねて来る気配は無かったぞ?」翔は首を捻った。「それはそうよ、だって朱莉さんにはこう伝えたんだもの。翔が眠ってるかもしれないから、静かに部屋に入ってきてねって。時間は夜の10時を指定したわ」朱莉はシャンパンを飲み干す。「何だって……夜の10時……?」翔はその時の記憶を呼び戻し……顔色が変わった。(ま……まさか……!)「明日香! 夜の10時って……確か昨晩あの時間は……!」翔は明日香の両肩を激しく掴んだ。「な、何よ! 痛いじゃない! ええ、そうよ。昨晩はいつにもまして情熱的な夜だったわ」酔いが回って来たのか、明日香は頬を薄っすらと染めながらじっと翔の顔を見つめた。「ま……まさか……朱莉さんはあの時……部屋に入ってきていた……のか?」翔は右手で頭を押さえながら明日香を見つめた。「そうよ。でも……知らなかった……。誰かに見られるのって……あんなにも興奮するものなのね……?」「!!」明日香の言葉に翔は耐え切れず、無言で立ち上がると部屋を出て行った。ドアを閉めた途端、何よ、馬鹿! と明日香のヒステリックな喚き声と、何かが割れる音が聞こえたが……とても翔は部屋に戻る気にはなれなかった。何処へ行くともなしに、トボトボとホテルを後にする。「くそ……! 何て事だ……!」翔は手近に生えていたヤシの木を殴りつけた。そして、今日自分が朱莉に取ってしまった態度を悔いていた。「俺は何て酷い言葉を彼女に投げつけてしまったんだろう……。いや、それどころか昨日から徹底的に存在を無視するような態度を取ってしまっていた」今朝のラウンジで見た朱莉の表情が目に浮かぶ。守れない約束なら初めからしないでくれ。そう言い、すぐに朱莉から視線を逸らしたが……一瞬朱莉の表情が目に止まった。朱莉は大きな瞳を震わせていた。それは泣くのを必死にこらえたような表情に見えた。顔色は真っ青になり、小さな身体は小刻みに震えていた。その姿を見た時、一
『なんだよ、翔……突然電話を掛けてきたくせにだんまりなんて』電話越しから琢磨の声が聞こえてくる。「いや……何となくお前の声が聞きたくなってな……」『……』「なんだよ琢磨。俺の話……聞いてるのか?」琢磨から返事が無いので翔は再度声をかけた。『聞こえてるよ。それよりなんだよ、気色悪いな……。男から声が聞きたくなったって言われたのお前が初めてだ。前代未聞だよ。で……まさか、その為に俺に電話を掛けてきたって言うのか?』「ああ……そうだ」『……おい! 翔! お前ふざけてんのか? 今何時だと思ってるんだよ? 真夜中の2時だぞ? そっちは何時なんだよ』「22時くらい……かな?」翔はチラリと時計を見た。『お前なぁ! 東京の方が4時間も時差が早いじゃないか! いい加減にしろよ。こっちも明日は仕事なんだぞ? こんな時間に電話がかかってくるから、何か緊急事態でもあったかと思うじゃないか。びっくりさせるなよ!』「あ……ああ、そうだった。モルディブと日本は……時差があるのを忘れていたよ。すまない、悪かった」受話器越しから琢磨の大きなため息が聞こえてくる。『おい……翔。何かあったんだろう? いいから話してみろよ。もう目も覚めてしまったしな』「悪いな……琢磨」『ば~か。今更なんだよ……。それで何があったんだ?』「実は……」翔は重い口を開いた。明日香が朱莉の前で翔と明日香のキスシーンの写真を撮らされたこと。朱莉への嫌がらせがエスカレートしない為に、自ら朱莉を無視するような態度を取ってしまったこと。そして明日香がわざと自分達の情事の時間に朱莉を呼び出して、その現場を彼女に見せてしまったこと……。それらを全て琢磨は聞いていたが、やがて深いため息をついた。『おい……。なんだよ、それ……今の話、本当か?』「ああ……。本当だ」『まじかよ……酷い話だな』「全くだよ」『おい、まるで他人事のような言い方をしているようだが、いいか? これは明日香ちゃんに限らずに話してるんだぞ? 翔、お前も明日香ちゃんと同罪だ。いや、俺から言わすと明日香ちゃんよりも酷い男だ』「俺が……?」『お前、まさか……自覚していないのか?』「い、いや……。そんなことは無い。俺は……本当に酷い、最低な男だよ」『こうなること、本当は薄々気付いていたんじゃないのか? だからこそ、朱莉さんがモルデ
『いいか? 確かに明日香ちゃんがあの時怪我をしたのはお前のせいかもしれないが、今は傷跡だって残っていないじゃないか。見た目だって普通と全く違いが無いし。あんななのはもう時効だ。そうは思わないのか?』「だが、あの時の当時の明日香は本当に酷い怪我を負って、医者からも一生傷跡は残るって……」『だが、実際はどうなんだよ? 当然男女の仲なんだ。傷跡があるか無いかくらいは分かるだろう?』2人は踏み込んだ質問も出来る程の関係だった。「……今は……殆ど目立たない。だが……」『もういいよ、分かった。悪かったな。昔の事思い出させて』「いや……別にいいさ」『なぁ、本当にそんなんでこの先、ずっと明日香ちゃんのヒステリーに付き合いながら結婚生活を続けていけるのかよ?』「大丈夫だ。あの時にそう決めたからな」自長期気味に笑う翔。『翔……明日香ちゃんがあんな風になったのは……』「何だ?」『いや、何でもない。そんな事より、この旅行の間はもう朱莉さんとは接触するな。明日香ちゃんにもそう言え。朱莉さんに構うなって約束させろ。それ位は出来るだろう?』「ああ。やってみるよ」『全く頼りない返事だな……』「なあ、琢磨」『なんだよ。そろそろ切るぞ? 明日も早いんだから』しかし、翔は続ける。「こんなこと、お前に頼むのはどうかしていると思うんだが……聞いてくれるか?」『……言うだけ、言ってみろよ』「今後はなるべく朱莉さんとも連絡を取り合いたいと思っているんだ。ただ明日香には知られるわけにはいかない。もしばれたら朱莉さんに風辺りが強くなる」『ん? そう言えばお前、一体何所で電話かけてるんだよ?』「ホテルのバーだ」『チッ、ほんとにいい身分だな? まあいいや。それで話の続きは?』「それで今後はお前を通して朱莉さんと連絡を取りたいと思ってる。いいだろうか?」琢磨が呆れた声を出す。『……はあ? おまえ、本気で言ってるのか?』「本気だ。……駄目か?」『……本当なら断ってやりたい案件だよな……。けど朱莉さんを選んでお前に紹介したのは他でもない。この俺だ。ある意味、俺にも責任がある』「それじゃ……いいのか?」翔の顔が明るくなる。『仕方が無いさ。だがな、ずっと続くとは思うなよ? 少しずつお互いの関係を改善させて、ゆくゆくは俺を通さなくても連絡を取り合える仲になれるように努
翌朝―― 7時にセットしておいたスマホのアラームが鳴った。朱莉は目を覚まし、スマホに手を伸ばして音を止めた時にメッセージが届いていることに気が付いた。(誰からなんだろう……?)着信相手は意外な事に琢磨からであった。「え? 九条さん? 何かあったのかな?」急いでメッセージを立ち上げた。『おはようございます。お身体はもうすっかり良くなられましたか? 実は昨晩副社長から連絡が入りました。残りの日数は自由行動をするようにと言伝がありましたので、ガイドの方と残りの旅行を楽しんでください。副社長と連絡を取りたい時は私を通して下さい』朱莉はそのメッセージを複雑な思いで眺めていた。このメッセージの意図するところは、もう自分とは直接メッセージのやり取りをしたくないという意思表示なのだろうか?一瞬その内容を読んだ時、朱莉は目の前が真っ暗になりそうになった。しかし、朱莉はまだ次のメッセージが残っている事に気が付いた。『日本に帰国後、朱莉さんが元から使用していたスマホから私にメッセージを送って下さい。そちらから今後は明日香さんには内緒の2人のメッセージの橋渡しをさせていただきます。尚、念の為こちらのメッセージを読まれた後は削除しておいて下さい』朱莉はそのメッセージを読んでギュッとスマホを胸に握りしめた。(翔先輩……もしかして私に冷たくしていたのは明日香さんから私を守る為だったの?)都合の良い考えであるのは朱莉は重々承知していたが、それでも自分の為に考えてくれたのだろうと信じていたかった――****――午前10時「おはよう、アカリ」ホテルのラウンジのソファに座ってガイドブックを呼んでいた朱莉は顔を上げた。「おはようございます、エミさん」笑顔で挨拶するも、エミは怪訝そうな顔で朱莉を見つめる。「ねえ……アカリ。何かあったの? たった数日会わなかっただけなのに、随分やつれてしまったように見えるけど、まだ体調悪いの?」心配そうに朱莉の顔を覗き込んできた。「え……そ、そうですか……?」体重は計ってはいないが、日本から持ってきた服が緩くなっている事には気が付いていた。食欲も殆ど無く、たいした食事をした記憶もない。「言われてみれば……ここの所、食欲があまり無くて」「駄目よ、それじゃ。まだ若いのに、そんなにガリガリに痩せてたら魅力も半減してしまうわよ。
エミが最初に連れて来てくれたのは地元のマーケットであった。モルディブで売られているスイーツや野菜はどれも日本では見た事もない品ばかりで、朱莉はすっかり目を奪われていた。「エミさん。これは何ですか?」朱莉が指さしたのは直径30㎝ほどで薄茶色の果実であった。「ああ、これはココナッツ……これがいわゆる未成熟の椰子の実よ」「ええ! これが……あの椰子の実なんですか?」朱莉は驚いた顔で山積みで売られている椰子の実を眺めた。「あら? アカリ。椰子の実を見るのは初めてなの?」「は、はい……お恥ずかしい事に」頬を染る朱莉。「別に恥ずかしがることじゃないわよ。それじゃ当然飲んだこともないのよね? 椰子の実のジュースが飲めるのはこの青い実の状態じゃないと飲めないの。これがもっと成長すると、表面の色がもっと茶色くなって。周囲に繊維がつくのよ」「へえ~……そうなんですか? ちっとも知りませんでした」「それじゃ椰子の実ジュース初体験してみましょうか?」エミは椰子の実を売っている男性に何か話しかけ、2つ椰子の実を購入した。男性店員は器用に先端だけ皮を剥いて切り落とすと、太くて長いストローを差し込んでエミに手渡す。エミは笑顔で受け取ると、朱莉に1つ手渡した。「向こうにベンチがあるから、そこに座って飲みましょうか?」2人でベンチに座ると早速エミが勧めてくる。「さあ、アカリ。飲んでみて?」「は、はい……」朱莉は恐る恐るストローに口を付けると、中のジュースを飲んでみた。「……」「どう? 美味しい?」「はい! とっても美味しいです。……何だかスポーツドリンクに味が似てますね」朱莉の答えにエミが驚く。「え? 美味しいの? それじゃ私も飲んでみるわ!」エミもストローに口を付けると、勢いよく飲み始めた。そしてストローから口を離す。「まあ! 本当にこの椰子の実は美味しい!」「え……? あ、あの……椰子の実にも美味しいとか不味いとか、あるんですか?」「ええ。そうよ。当たりはずれはあるわよ~。中には青臭くて飲みにくいのもあるからね。でもこの店のは……うん、当たりね! 美味しいわ!」2人は椰子の実ジュースの味を楽しんだ後、引き続きマーケットを散策した――
――ピンポーン インターホンを押すと、ドアが開けられて不機嫌そうな明日香が顔を覗かせた。「……随分早かったのね。琢磨」明日香は露骨に嫌そうな視線を琢磨に向けるが、それを気にも留めずに琢磨は言った。「ああ、急いでここへ向かったからな。それじゃ中へ入らせて貰うよ」「ちょ、ちょっと……!」明日香の非難する声も、ものともせずに琢磨は部屋に上がり込むと、翔の衣服やらスーツを片っ端からクローゼットから出していく。「な……何するのよ! 琢磨!」明日香は琢磨が翔の背広に手をかけた時、片側の袖を掴んで引っ張りながら抗議した。「翔の服を何処へ持って行くつもりよ!」「それを俺に聞くのか? 明日香ちゃん。翔から聞いたぞ? 昨夜会長から連絡が入ったそうだな? 近々日本に一時的に帰国するそうじゃないか。それで朱莉さんと翔の新婚生活の様子を見たいって言言われたんだろう? 恐らく朱莉さんは翔の日用生活品は用意してるだろうが流石に服までは用意していないはずだ。だからこの部屋から翔の服を朱莉さんの部屋に移動させるのさ」琢磨はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。「な……何ですって……! 彼女の部屋に翔の服をですって? 嫌よ! そんな事させないわ! 翔の服なら彼女が適当に買って用意すればいいでしょう?」「随分無茶な事を言うんだな? 女性が1人だけで男性用の服やら下着をほんの数日で揃えきれると思ってるのか? 何せ、お前達兄妹が着ている服は全てブランド品ばかりだしな?」「ちょっと! 私と翔を兄妹って言わないでよ!」明日香はヒステリックに叫んだ。「何がいけない? 世間的には明日香ちゃんと翔は血の繋がりは無いが、戸籍の上では立派な兄妹だ。会長だってそれを分ってるからお前達の結婚を認めていないんだろう? いいか? 今から俺がやろうとしていることに文句を言ったり、この件で朱莉さんに言いがかりを少しでもつける様なら、俺は全て会長に報告するからな? 2人の結婚が偽装だと言うことも、偽造結婚に関する契約書だって全てな。あれを作ったのはこの俺だ。それらを全て会長に証拠として提出する。そんなことになれば明日香ちゃんも翔も終わりだぞ? きっとそれらが知れたら会長はお前達を許さない。翔に会社を継がせるって話も消えて無くなるかもしれないぞ?」(尤も俺自身だって終わりには違いないだろうけどな……)琢磨は
朱莉から自撮り写真の画像を受け取り、写真を加工編集して貰った翔は写真が出来上がったその日のうちに、祖父にメールに添付して送った。祖父からはモルディブのハネムーンを楽しめたようで良かったなと後日メールが入ってきたので、翔は一安心していたのだが……。****「おはよう……って何だよ! 朝っぱらから辛気臭い顔して……」オフィスに入って来た琢磨は難しい顔つきでデスクに座っている翔を見ると驚いた。それ程翔は髪が乱れ、酷い顔色をしていたのである。「あ、ああ……おはよう、琢磨」翔はぼ~ッとしていたが、琢磨に気付くと、顔を上げた。「おいおい……しっかりしてくれよ。今日は取引先と商談があるんだろう? あんまり聞きたくは無いが、一応聞いておく。……昨夜、明日香ちゃんと何かやりあったな?」琢磨は背広を脱ぐと、椅子に掛けた。「まあな、多少は……。だが、問題はそこじゃないんだ」翔は溜息をついた。「何だよ、だったら早く言え。それで何があった。早いとこ今抱えている問題を解決しなければ、午後の大事な商談に影響が出てしまうだろう?」バンと机を叩く琢磨。「そうだな……言うよ。実は会長が1週間後……日本に一時的に帰国してくるんだ」「え? そうだったのか? 初耳だな。それは昨夜決まったことなのか?」「ああ。……そうだ」「ふ~ん……それで明日香ちゃんが荒れたわけか。明日香ちゃんは子供の頃から会長とは反りが合わないって言ってたものな」「いや。明日香が荒れていたのはそれだけが原因じゃないんだ……」「何だ? まだ何かあるのか?」「会長……祖父が俺と朱莉さんの新婚生活の様子を見たいから……新居に遊びに来ると言ってきたんだよ。ひょっとしたら、あのモルディブでの写真に何か違和感を感じたかもしれない……だからだろうか?」翔は両手を組んで、顎を乗せると考え込んでいる。「だから俺はお前が写真を画像加工に出すとき言ったんだ! 会長は勘のいいお方だ。下手な小細工をしても嘘はバレるぞって。何か怪しいと思われたんじゃないのか? でもな、翔。それはお前の自業自得だからな? 最初から明日香ちゃんが文句を言おうが何しようが、モルディブでちゃんと朱莉さんとの写真を撮っておかなかったお前の責任だ。明日香ちゃんの矢面から朱莉さんを守る為に、波風立てたくないって一度俺に言った事があるが……俺から言わせ
「ちょっと待てよ、翔! そもそも2人でモルディブへ行った証拠を会長に見せる為に行った旅行じゃ無かったのか? 何故お前と朱莉さんのツーショットが無いんだよ!」「明日香が……常に一緒だったから朱莉さんとの2人で映る写真を写す事が出来なかったんだ……」「朱莉さんにはお前と明日香ちゃんのツーショットの写真を何枚も撮らせて? 挙句には2人のキスシーン迄写させたんだろう? お前、一体何やってるんだよ!」琢磨は流石に我慢の限界で声を荒げてしまった。「ああ、そうだ。俺は本当に最低な男だ。明日香の御機嫌取りばかりして彼女を……朱莉さんを傷付けてしまった」「く……! ま、まあ過ぎてしまったことはもうどうしようもないが……。うん? 待てよ。もしかしてお前がさっき見ていたHPってまさか……!?」「ああ。朱莉さんの写真を借りて、そこの会社に画像の加工を依頼しようかと思ってるんだ。最短2日で仕上げてくれるそうなんだが……。それで琢磨から朱莉さんのモルディブで撮影した画像ファイルを送って貰えないか頼めないかと思ってって……琢磨、どうした?」琢磨が肩を震わせている事に気が付いた。「お、お前なあ! ふざけるな! いいかげんにしろよ! 自分が今何をやろうとしているか分かってるのか!? 会長に2人がモルディブ旅行へ行った証拠写真を見せなくてはならないので、朱莉さん。申し訳ありませんが、モルディブで撮影した朱莉さんの写真を拝借出来ないでしょうかって俺にその台詞を言わせる気かよ!」「そのまさかなんだ……」琢磨は怒りで顔が赤くなり、翔の顔色は青ざめている。何とも対照的な2人は暫く視線を交わしていたが……琢磨の方が折れた。「分かったよ……。俺から朱莉さんに頼んでみるが……いいか? 翔。後で必ず何らかの形で朱莉さんに詫びるんだぞ?」「ああ……分かってるよ」「全く、俺もどうかしてると思うよ。お前や明日香ちゃんのような奴と関わって……まるで悪魔の手先にでもなったかのような気分だよ。本当に朱莉さんが気の毒で堪らないよ……」琢磨の言葉に翔は項垂れた。「ああ……だから琢磨。お前には悪いが……朱莉さんに優しくしてあげてくれないか?」「翔、自分で何を言っているのか分かっているのか? 本来優しくするのは俺じゃなくてお前の仕事だろう? それを普通秘書の俺に言うか?」「悪いと思ってるよ。お前にも…
「はあ~……」モルディブ旅行から帰国して5日目、翔はPCに向かいながら大きなため息をついた。「何だよ。そんな幸せが逃げていきそうな大あくびをして。そんなだらしない姿を取引先に見られたらどうするんだよ。この会社は景気が悪いのかと思われるだろう?」同じくデスクで仕事をしていた琢磨が顔を上げ、翔を咎めた。「そんなこと言ったって、今俺は非常にまずい立場に立たされているんだよ」そして再び深い溜息をつく。「仕事で何か困ったことでもあったのか? だったら秘書の俺にまず相談するのが筋だろう? さあ、何だ。もしかして取引先と何かトラブルでもあったのか?」琢磨は翔のデスクに近付くとPCを覗き込む。「うん? 画像加工プリントサービス『フォトグラフ』……何だ、これは?」それは写真を修整、加工してくれるサービス会社のHPであった。「ああ……ちょっと写真を加工してくれるサービス会社を調べていたんだ」翔は頭を抱えながら再びため息をつく。「ふ~ん……。お前ひょっとすると今度は映像加工サービスの業界にも乗り出すつもりなのか?」琢磨の質問に否定する翔。「何言ってるんだ。そんなんじゃない。まあゆくゆくはそっちの業種に手を伸ばすのもありかもしれないが、今は全く関係ない」「じゃあ何の為に調べていたんだよ」すると、途端に翔の顔が曇った。「実は……」「うん?」「会長から……メールが届いたんだ」翔は重そうに口を開く。「メール? どんな内容なんだよ。その表情からすると厄介な案件なのか? ひょっとするとこの間の特許志願が通らなかったとか?」「違う! そんなんじゃないんだ……。個人的なことだよ」「個人的なこと……? お前自身についてか?」「ああ」「そうか、なら問題解決に向けて頑張れよ」琢磨が背を向けてデスクに引き返そうとするのを翔が引き留めた。「琢磨! お前に頼みがあるんだ……聞いてくれるか?」「はあ~。ったく……またかよ。お前の頼みはいつもろくな頼みじゃ無いんだからな……」「そこを何とか頼む! 朱莉さんについてのことなんだ……」「朱莉さんについてのこと?」「以前言ってくれただろう? 朱莉さんを紹介したのは自分にも責任があるから協力するって」「おまえなあ……俺は確かに責任はあると言ったが、協力するとまでは言ってないぞ? 勝手に話の内容を変えるなよ」「駄
「昔ね……私には日本にいた時恋人がいたのよ。彼は海がすごく好きな人でサーフィンが得意な人だったの。そしていつかモルディブでサーフィンをしたいってよく言ってたっけ……」エミはいつしか遠い目をしながら星空を眺めている。「ある日、2人でサーフィンに海に出たんだけど、波がすごく高かったのよね。私はまだサーフィンが得意じゃ無くて、波に乗るのに失敗して……」エミは瞳を閉じた。「彼は必死になって溺れた私を助けてくれたんだけど……私を助けた為に力尽きちゃったのかな……。気付いたら彼の姿が消えていたのよ」「!!」朱莉は思わずエミの顔を見た。しかし、そこには何の感情も見せずに淡々とした表情のエミがいた。「彼は結局3日経っても見つからなくて、遺体が無いままお葬式をあげる事になってしまったの。だけど、私はどうしても彼が死んでしまったなんて信じられなくて……ひょっとすると、モルディブにサーフィンをしに来てるんじゃないかなって馬鹿な考え迄持ってしまったのよ」エミは俯いた。「彼はよく言ってたの。いつか南十字星が見える場所で2人で一緒に見つけようって。彼はね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の小説が好きだったのよ。それで、私もその小説を手にして、サザンクロスの話が目に止まったの」「エミさん……」朱莉も銀河鉄道の夜の話はよく知っていた。主人公ジョバンニと彼の親友カムパネルラが銀河鉄道に乗って旅をする話……。(物語の終盤で、銀河鉄道に乗っていた乗客が天上と呼ばれるサザンクロスの駅で降りてしまうんだっけ……。そして結局、カムパネルラは現実世界で友人を助ける為に川に入って、溺れて死んでしまった……)「彼が行きたがっていたこの島で、サザンクロスが見えるこのモルディブに来れば……彼に会える気がして私は1人でこの島へやって来たの。でも本当の事を言えば死に場所を求めていたのかもね」「!」朱莉はあまりにもショッキングな話に言葉を無くしてしまった。「だけど、そんなボロボロになってしまっていた私を救ってくれたのが今の主人って訳よ」突然エミはそれまでのしんみりした様子から、明るい笑顔になる。「あのね、アカリ。私、少しだけ、クジョウタクマって人と電話で話したのよ。だから貴女の複雑な事情も少し知ってる。その上で話をさせて貰うけど。アカリ、貴女……本気で偽装結婚の相手のこと、好きなんでしょう?
あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたいで最高の気分です」朱莉は笑った。「あら、中々良い表現をするのね?」エミはビールをゴクリと飲み干して星を眺めている。「それにしても……すごくこれって日本では贅沢な事かもしれないですね。この島だから出来る事なんですよね……」満天の星空から、朱莉は目が離せずにいた。「ねえ……アカリ。私、いいものを持ってきてるんだ」「え? いいものって何ですか?」「ほら、これよ」エミがカバンから取り出したのは星座表だった。「え……? これって確か星座表ですよね?」「うん。これで2人で一緒にサザンクロスを見つけましょ!」エミは目をキラキラさせている。「サザンクロスって……もしかして南十字星ですか? 素敵……あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。****「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたい
「ほらアカリ。動いちゃダメよ、メイクが出来ないでしょ?」朱莉は今、部屋を訪れてきたエミに化粧をされていた。「で、でも……こんな姿。は、恥ずかしくて……」朱莉は消え入りそうな声で俯くと、エミに顔を上げられた。「コラ、下向かないの。メイクが出来ないでしょう?」それから約20分後――「はい、出来た。完成~! あっちに行って鏡を見てごらんなさい?」無理矢理エミに手を引かれ、朱莉は全身が映る鏡の前に立たされて息を飲んだ。「こ……これが私……?」大きな花柄のブルーのノースリーブのワンピースに、緩く巻き上げた髪、そしてアイシャドウにグロスを塗った顔はとても自分とは思えなかった。「ほら~もともと貴女は美人だったけど、3割増し位美人になったわ。さ、それじゃ行くわよ」朱莉の細い腕を掴むエミ。「え? ええ? 行くって……一体何処へ!?」「勿論! 素敵な大人が行く店よ?」エミはパチリとウィンクした。****「あ、あの……私、こんなお店来るの初めてなんですけど……」朱莉はエミに耳打ちした。エミが連れてきたのは高級ショットバーの店であった。客は全て外国人観光客ばかりで、誰もが高級そうな服をみにつけている。「ほら、アカリ。貴女すごくキュートだから皆に注目されてるわよ?」「え? そ、そんな……!」朱莉の顔が真っ赤に染まる。「さあ、アカリ。何を飲む? ……あ、そうだったわね。英語表記だったから……いいわ、私が適当に頼むからね!」エミの注文で、あっという間に2人のテーブルは様々なカクテルで埋め尽くされた。「さあ! ジャンジャン飲んでね!」エミはグイグイと朱莉にアルコールを進めてくる。素直な朱莉は言われるままにカクテルを飲み続け……とうとうテーブルに突っ伏してしまった。「ねえねえ。アカリ……大丈夫なの?」エミが心配そうに朱莉を揺する。「あ……ハイ。大丈夫ですよ~」しかしその目はトロンとし、頬は赤く染まっている。「う~ん……困ったなあ。アカリ、ちょっとだけ電話してくるから、じっとしてるのよ?」エミはタクシーを手配する為に店の外に出た。そして朱莉が1人になった所を男性客が近付いて行く……。その外国人客は舌なめずりをしながらテーブルに突っ伏している朱莉の肩に手を置こうとして、1人の東洋人観光客に止められた。『お前……その女性に何をしようとし
「そんな誹謗中傷を書き込んで、正体がバレたどうするつもりなんだ? もう少し俺達の社会的立場を考えて行動してくれ」「うるさい! 翔!」明日香は吐き捨てるように言うと、隣室に入って強くドアを閉めてしまった。「明日香! 明日香!」翔がドアをドンドン叩いても中から返事は返ってこない。「ふう……」翔は疲れ切った表情でため息をつくとソファに崩れるように座り込んだ。ここ数日、明日香のヒステリックが起きる頻度が増えてきている。やはり精神安定剤を一時的に中断しているのが良く無いのだろうか?2人でモルディブへ観光に来れば明日香の機嫌も直ると思ったのに……それは大きな間違いだったのかもしれない。しかし、翔の頭の大半を占めていたのは明日香ではなく、実は朱莉の方であった。(可哀そうな事をしてしまった。まさか彼女がガイドの女性とあの店に来ていたなんて。あらかじめ連絡を取り合って、鉢合わせしないようにもっと配慮すべきだったのだろうか……)いや、そうじゃないなと翔は思った。明日香のヒステリーが酷くなっても止めて、朱莉に謝罪するべきだったのだ。あの時の朱莉の怯え切った目と、青白い顔に小刻みに震えていた小さな身体が脳裏に焼き付いて離れない。今の段階の契約では朱莉との結婚生活は6年だ。契約書を見直して、もっと渡す現金を増やしてあげるべきなのかもしれない……。そこまで考えていた時、突然ドアが開けられて明日香が部屋から出てきた。「! あ……明日香。お前、一体なんて恰好をしているんだ? 何処かへ出掛けるつもりなのか?」翔は声を震わせて尋ねた。胸元が大きく開いたベアトップの真っ赤なフレアーワンピースに派手なメイクをした明日香が現れたのである。そして小さなボストンバッグと手にしている。「ええ、そうよ! 私達、今夜は同じ部屋に居ない方がいいと思うの! ついさっき、ネットでこの島から少し離れた小島の水上ヴィラを予約したのよ。今夜はそこに泊るから、翔は1人この部屋にいるといいわ!」そして部屋を出て行こうとする。「待て! 明日香! ここは日本じゃないんだ! 1人で行動するなんて危険な真似はやめてくれ!」翔は必死に懇願して明日香から荷物を奪おうとしたが、次の瞬間――パンッ!乾いた音が部屋に響く。明日香に平手打ちをされてしまったのだ。「あ……明日香……」明日香は冷めた目で翔
結局、この日朱莉は明日香と翔の件ですっかり落ち込み、食欲が薄れてしまい折角の魚料理をあまり食べる事が出来なかった。エミは折角の料理だからと言ってお店の人にコンテナボックスを頼み、今夜のおかずにするから気にしないでと言って笑ったが、朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。「本当に折角連れ出して貰ったのに、申し訳ございませんでした」ホテルまで送って貰うと朱莉は何度も何度もエミに頭を下げた。「あら、いいのよ。全然そんな事気にしないで。それにしても本当に大丈夫? 顔色が悪いから心配だわ。そうだ! 何か栄養のあるものを後で届けてあげるわ!」「いえ、そんなそこまでしていただくわけにはいきません。エミさんも今日は私の事は構わず、お休みください」恐縮する朱莉。「何言ってるのよ、アカリ。夕方6時に迎えに来るわよ。2人で出かけるからね」「え……ええっ!? 出掛けるって……一体何処へ!?」「アカリはまだ若いんだから、もっと羽目を外すこともするべきなのよ。いい? 18時にホテルの部屋に迎えに行くから、体調管理をして待っていなさいよ? 約束だからね?」エミは朱莉に無理やり約束をさせると、車に乗って去って行った。****ホテルの部屋に戻り、ベッドに横たわると朱莉はポツリと呟いた。「ふう……エミさんて意外と強引なところがある人なんだな……」でも、正直嬉しかった。まだ会って数日しか経っていないのに、明日香の前に立ち塞がって朱莉を守ってくれたこと……。あの時、本当は涙が出そうに成程朱莉は嬉しかったのだ。(本当は欲を言えば、翔先輩に庇って貰いたかった……)でも……それは夢のまた夢。鳴海翔の一番は高校時代から常に明日香だったのだ。今更と言われても、どうしても朱莉は期待してしまっていたが、その結果は……? 翔は朱莉を見る事すらしなかったのだ。「もう翔先輩には何も期待したら駄目なのかな……?」朱莉はいつの今にかそのままベッドの上で眠りに就いてしまった—―****その頃、明日香と翔の部屋では――「悔しい!! 何故私がたかがガイドごときに馬鹿にされなくちゃならない訳!?」高級ブランドのショルダーバックを乱暴にベッドに投げつけた。「おい、明日香! 少しは落ち着けって!」翔は明日香を宥めるのに必死である。「煩いわね! 元はと言えば翔がいけないんでしょ! 突然あのレスト